1947年 : 0歳
- 1月8日
- ロンドンのブリクストン地区スタンズフィールド通り40番地にてボウイ、すなわちデヴィッド・ロバート・ジョーンズ誕生。父ヘイウッドと母メアリー(通称ペギー)は、ともに再婚で連れ子(義姉と義兄)がおり、複雑な家族環境にボウイは育った。
1959年 : 12歳
- 12月
- クリスマスに父親ヘイウッドからサックスをプレゼントしてもらう。その後すぐにサックス奏者ロニー・ロスの師事を受ける(ロスとは後にルー・リード『Transformer』で共演)。
1962年 : 15歳
- 6月
- 学友ジョージ・アンダーウッドとのケンカが原因で左眼の瞳孔麻痺の損傷を負ってしまい、約3ヶ月間入院。この怪我により今でもボウイの左眼は瞳孔が開いたままで左右眼の色が違って見える。
- 12月
- 学期末のクリスマス・ショウにボウイがサックスで参加していたジョージ・アンド・ザ・ドラゴンズが出演。サックスを演奏し校内のヒーローとなる。
1963年 : 16歳
- 義兄テリーの影響でJ・ケルアックの「路上」を読み、ビートニク小説に傾倒。この頃にはサックス奏者としていくつかのバンド活動を行っている。判明しているのはザ・コンラッズとザ・フッカー・ブラザーズ。
ブロムリー・テクニカル・ハイスクールを中退し、広告代理店でジュニア・ビジュアライザーとして働くが、すでに熱心に音楽活動を行っており、約半年で退社。 - 11月
- G・アンダーウッドと共にザ・キング・ビーズなるバンドを結成、マーキーやラウンド・ハウスなど著名なライヴハウスにレギュラー出演するようになる。
1964年 : 17歳
- 6月5日
- Vocalionからシングル「Lisa Jane」発売。BBCテレビにも出演するが話題にはならず。
1965年 : 18歳
- 3月
- Parlophoneよりザ・マニッシュ・ボーイズ名義のシングル「I Pity The Fool」発表(ボビー・ブランドのカヴァー)するが、またも話題にはならず。
マニッシュ・ボーイズも思ったような活動が果たせず、メンバー探しに奔走。そして3つめのバンドである ザ・ロウアー・サードを結成。ライヴ活動も精力的に行った。この頃初代マネージャーのケネス・ピットと出会う。
1966年 : 19歳
- 1月
- アメリカで人気だったモンキーズのヴォーカルと同姓同名であると知り、デヴィッド・ボウイと改名。由来はアメリカ製狩猟ナイフからとられたと言われている。これはマネージャー契約を交わす前にケネス・ピットがアドバイスを送ったそうで、この年に彼とボウイは5年間の契約を結んだ。
同じく1月、Pyeよりボウイ&ロウアー・サード名義で「Can’t Help Thinking About Me」を発売。ソロ名義で2枚のシングルを発売するが不発、Pyeの解雇、ロウアー・サード解散と苦難の時期が続く。 - 12月
- 「Rubber Band」をDecca傘下のDeramより発売。これがわずかだが話題となる。
1967年 : 20歳
- マーキーにレギュラー出演。Bowie Showboatなるステージを展開。バックバンドのザ・バズには、エルトン・ジョンがキーボードで参加していた。
- 6月1日
- デビュー・アルバム『David Bowie』がDeramより発売。売れ行き・評判は芳しくなかった。デビューアルバム制作中からチベット仏教に熱心になっており、チベット難民救済活動を行うチベット・ソ サエティに参加していた。
- 9月
- ボウイ主演の短編サイレント映画『イメージ』が製作される。この作品は一時日本でもヴィデオ化されたが現在は廃盤。パントマイムの師リンゼイ・ケンプとの出会いもこの年。初期ボウイの課外活動はチベット仏教→ケンプの劇団→フェザーズ→ベッケナム・アーツ・ラボという流れで考えると分かりやすい。
1968年 : 21歳
- 1月3-5日
- リンゼイ・ケンプ劇団の公演に参加(3月5~16日、25~30日にも公演あり)。パントマイムの腕をさらに磨く。
- 1月30日
- BBC2テレビのドラマ『Pistol Shot』(時代劇)にバックダンサーで出演。この番組で共演したヘルミオーネと恋に落ち、同棲生活をはじめる。
アイスクリーム”LUV”のCFに出演。 - 6月3日
- マーク・ボランの前座でロイヤル・アルバート・ホールに出演。マイムと歌(テープ)で構成された 約20分のショウは中国侵略後のチベットで暮らす少年の物語をコンセプトにしたものだったが、難解すぎたため観客には受けなかった。しかしボランはそのとき多大な感銘を受けたと後年語った。
- 11月
- 短編映画『ヴァージン・ソルジャーズ』に端役で出演(酒場の喧嘩シーンに一瞬だけ映った)。
ヘルミオーネ、ジョン・ハッチとともに多角的バンド、フェザーズを結成。ザ・フーの前座などを務める。68年のうちにヘルミオーネとの恋愛は終わる。
1969年 : 22歳
- 1月
- テレビ特番用にと映画『ラヴ・ユー・ティル・チューズデイ』が制作されるが、資金が尽きたためにお蔵入りとなってしまう(映画、サントラは’84年にヴィデオ発売される)。
ワークショップの先駆け的な活動を展開するベッケナム・アーツ・ラボを仲間と創設する。ここでミック・ ロンソンやトニー・ヴィスコンティらと出会う。 - 2月
- ティラノザウルス・レックスの前座としてツアーに出る。ステージは昨年のマイム・ショウの構成。キング・クリムゾンのレセプションに出席。このときアンジー(メアリー・アン・バーネット)と出会う。
- 6月20日
- Philips傘下のMercuryと契約。
- 7月11日
- シングル「Space Oddity」発表。アポロの月面着陸と時を同じくしたこの曲は、最終的にチャートの5位まで登りつめるボウイ初のヒット作となる。
同月、イタリアで開催されたマルタ・ソング・フェスティバルで「When I Live My Dream」を歌い、15ヶ国の参加者の中から見事優勝に選ばれた。イタリアではイタリアン・ソング・フェスティバルにも参加した。 - 8月5日
- 父親ヘイウッドが病により急死。誰よりも念願のヒットを喜んでくれたのはヘイウッドだった。ボウイは悲しみに暮れる。
- 10月
- アンジーとともにヴィクトリア調の30部屋もある邸宅Haddon Hallに引っ越し。ヴィスコンティもこの邸を気に入り、同時に引っ越した。
- 11月4日
- Philipsより『David Bowie(後にRCAが『Space Oddity』と改題)』が発売。シングルがヒットしたものの、このアルバムは当時あまり売れず、ボウイ自身も落胆した。
- 11月30日
- 身体障害児支援協会主催のチャリティ・イベント「セイヴ・レイヴ69」に出演しマーガレット王女と接見する。