バイオグラフィー 1947-2016 魅せられし変容の軌跡を辿る

David Bowie Biography 1947-2016

誕生~Space Oddity 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代

はじめに

60年代後半にモッズにかぶれ、オールラウンドなパフォーマーとして数年を過ごした後、来たる時代とともにシンガーソングライターの資質を自己に再発見したデヴィッド・ボウイ。英国ロック界の寵児となる1972年、ボウイはプロトメタルなアルバムを録音する。それがグラムロックを一躍シーンのメインストリームに押し上げた『ジギー・スターダスト』である。ジギーの熱狂はアメリカにまで及び、さらに巨大化していくが、グラムロックの旗手という肩書きにボウイ自身は全くもって満足しなかった。
70年代中期までの退廃的なロックを経過するなかで、ボウイ自身が”プラスティック・ソウル”と命名したフィラデルフィア・ソウルをアヴァン・ポップに変形させたスタイルを確立し、アメリカを手懐けることに成功する。1976年『ステイション・トゥ・ステイション』では孤高のヨーロピアン・ファンクの金字塔を打ち立てる。その後間もなくボウイはベルリンへ飛び、ブライアン・イーノを召喚して実験的な電子音楽を立て続けに3枚のアルバムレコーディングする。これが俗に言うベルリン三部作である。
80年代が明けてもボウイの超常的な才能は衰えを見せなかった。しかし1983年にEMIアメリカへの移籍を契機にリリースしたダンスポップ・アルバム『レッツ・ダンス』が爆発的な人気を獲得する裏側で非凡は次第に平凡の中へと淀んでいった。迷走を繰り返しながら再起までにボウイは10年近い歳月を要し混迷を深めた。だが80年代と90年代の流行遅れであったときにさえもボウイがロック界でもっと影響力を持つアーティストであったことは明確だった。音楽はもちろんボウイがそれまでに生み出してきたスタイルや表現にまつわるアプローチは幾多のサブジャンルを掻き立ててきたし、パンク、ニューウェイヴ、ゴス、ニュー・ロマンティックス、さらにはエレクトロニカまでを含む広範な領域に影響を与えたアーティストはボウイ以外ポピュラー・ミュージック史上例を見ない。

デヴィッド・ボウイの生涯

デヴィッド・ロバート・ジョーンズは13歳のときに音楽を演奏し始めた。ブロムリーの工業学校に在学中サックスを学んだのが最初だった。学生時代の重大事件がもうひとつ。ガールフレンドをめぐる学友とのケンカの怪我によりボウイの左眼の瞳孔が膨張したまま閉じなくなってしまったのである。
卒業後ボウイは広告代理店で働きながらモッズ・バンドでサックスを吹いた。キング・ビーズにマニッシュ・ボーイズ、デイヴィー・ジョーンズとロウアー・サード。3つのバンドでシングルをリリースする機会を得たが、どれも不発に終わる。1966年当時人気だったモンキーズに同名人物がいることを知りデヴィッド・ボウイと改名。パイ在籍時に3枚のシングルを発表するのだが、ここでもたいした話題にはならなかった。翌年デラムとの契約にこぎつけアンソニー・ニューリーのような古典的なエンターティナーのスタイルでプロモーションに出た。レコーディングを終えた後ボウイはスコットランドにある仏教徒の僧院で数週間を過ごす。いったん僧院を出て今度はリンゼイ・ケンプの一座についてパントマイムを研究する。1969年フェザーズというマイムを取り込んだトリオ・グループを結成し独自の活動も行った。フェザーズは短命だったが次のベッケナム・アーツ・ラボなるワークショップを運営する活動につながっていった。
アーツ・ラボに融資するためにボウイはその年にマーキュリーと契約し『Man Of Words, Man Of Music』(後にスペイス・オディティと改題)を発表。そのアルバム中の「スペイス・オディティ」はシングルカットされ、イギリス国内ではスマッシュ・ヒットを記録、ようやくボウイの生活が音楽中心になっていった。
旧友マーク・ボランのティラノサウルス・レックスのコンサート・ツアーにも同行し何度か客演もつとめた。ボランとのツアーを終えたボウイはベーシスト兼プロデューサーのトニー・ヴィスコンティやギタリストのミック・ロンソン、ドラマーのケンブリッジとともにハイプなるグループを結成しコンサート・ツアーを敢行。ハイプはすぐに解散となったがボウイとロンソンは交流を深めていった。次のアルバムのレコーディングに取り組む際にドラマーの新規採用を行いミック・ウッドマンジーが加わった。ヴィスコンテのプロデュースで完成した『世界を売った男』はドレスを着用したカヴァー写真が物議を醸したもののほとんど注目されなかった。翌1971年後半にはポップスロックなアルバム『ハンキー・ドリー』(ロンソンとキーボードのリック・ウェイクマンをフィーチャーしたアルバム)も発表。
『ハンキー・ドリー』に続いてキャリア中で最も有名な『ジギー・スターダスト』の構想に着手、それは別の惑星から来た両性具有のバイセクシャルなロック・スターを描いた架空のオペラだった。ジギーを発表する寸前の1972年1月、ボウイはメロディ・メイカー誌のインタビューで「じぶんは同性愛者である」とカミングアウトしロックファンのみならず人々の関心を集めるセンセーショナルな手段へと打って出た。
ボランの煌びやかなグラムロックを手がかりにボウイは髪をオレンジを染め女性用の衣装を着始めた。さらにジギーのペルソナを従えサポート・バンド(ロンソン、ウッディ、ベーシストのトレヴァー・ボルダー)もスパイダース・フロム・マースと命名した。『ジギー・スターダスト』は1972年の後半にリリースされイギリス全土の注目の的となり好セールスを記録。また演劇的要素を含んだシアトリカルなコンサートも話題を呼ぶ。そして新たな市場を開拓するため初のアメリカ遠征ツアーも組まれた。コンサート・ツアーとともに『ジギー・スターダスト』はアメリカでも口コミで評判が広がり、同時期に再発された『スペイス・オディティ』はアメリカン・チャートのトップ20にランクイン。翌1973年、続くアルバム『アラジン・セイン』は発表と同時にチャート首位を獲得、その他にもボウイはルー・リードの『トランスフォーマー』やストゥージズ『ロウ・パワー』、またモット・ザ・フープルの復帰作『すべての若き野郎ども』をプロデュースするなど超過密な1年間をジギーの狂騒とともに過ごした。
容赦ないスケジュールとジギーというペルソナとの人格解離によってボウイ自身の精神は知らずのうちに蝕まれていた。全曲カヴァーで構成されたアルバム『ピンナップス』をスパイダースと作り上げた後ボウイは不意にバンドを解散させる。ツアー最終日のコンサートで突然の引退宣言をした後のことである。
ジョージ・オーウェルのデストピア小説『1984年』の舞台化に取り組みアルバム制作を進めていたが、オーウェルの遺族の許可が下りず構想は『ダイアモンドの犬』へと余儀なく変更されることに。1974年に『ダイアモンドの犬』としてリリースしたが評価はさほどよくなかった。しかしシングル「愛しき反抗」はヒットチャート上位にランクインし絢爛豪華なステージセットを用意したアメリカ・ツアーの成功もアルバムの売れ行きを伸ばすことを手伝った。ツアー日程を消化していくなかでボウイはソウル・ミュージックに傾倒するようになる。ボウイ最新のスタイル”プラスチック・ソウル”を反映するためにツアーは仕切り直し、ツアーのサポート・バンドのリーダーにギタリストのカルロス・アロマーを任命しバンドもフィリーソウルのグループに編成し直した。それらの変化はライヴ・アルバム『デヴィッド・ライヴ』で実況されているが、当時のファンはあまりの変貌ぶりに驚かされたという。
1975年にリリースした『ヤング・アメリカンズ』でボウイのソウル・ミュージックへの傾倒ぶりはピークに達した。そしてジョン・レノンとの共作シングル「フェイム」では悲願の全米チャート1位を獲得。ボウイはロサンゼルスへ移住し翌年公開のニコラス・ローグ監督による主演映画『地球に落ちてきた男』のクランクインに備えた。ロスでレコーディングした『ステイション・トゥ・ステイション』は前作よりもアヴァンギャルドな内容にもかかわらずシングル「ゴールデン・イヤーズ」がトップ10入りのヒットを記録。アルバムには新たなキャラクター、シン・ホワイト・デュークが登場するが、それはコカイン摂取による妄想の化身だった。ロサンゼルスの暮らしに辟易したボウイはヨーロッパへ戻ることを決意する。
ロンドン凱旋のためヴィクトリア駅に降り立った際、群衆に向かってナチス式敬礼を放ったことが論争を巻き起こした。当時ナチスに傾倒していた渦中のボウイは友人イギー・ポップとともにベルリンへ住みつくためすぐさま国を出た。
ベルリンでの生活は実に質素でドラッグから足を洗いアートを研究する傍ら絵を描き始めた。またドイツのエレクトロニック・ミュージック・シーンが活性化した時期でもあり、ボウイの関心はそこへ自然に引き寄せられた。エレクトロニック、アンビエントの筋で腕利きだったブライアン・イーノを迎えアルバム『ロウ』を制作、1977年の早々にリリースした。『ロウ』はニューウェイヴの先駆と称され、大衆的でありながらアヴァンギャルドな電子音楽を完成させた。当時のプレスは賛否両論を投げかけたが70年代後半の最も重要なアルバムのひとつだとされ、現在でも高い評価を得ている。その年続けざまにアルバム『ヒーローズ』を発表しただけでなくイギーの復帰作『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』のプロデュースを手がけ、さらにサポート・バンドのキーボード奏者として匿名でツアーにまで同行した。そしてボウイは1977年から俳優業を再開する。映画『ジャスト・ア・ジゴロ』ではマレーネ・ディートリヒやキム・ノヴァクと共演、ユージン・オーマンディ指揮による『ピーターと狼』では息子のためにナレーション役のオファーに応じた。
1978年は再びワールド・ツアーを敢行。2枚組のライヴ・アルバム『ステージ』もリリース。1979年中はイーノとニューヨークやスイス、そしてベルリンのスタジオでアルバム『ロジャー』をレコーディングして年末にリリースした。『ロジャー』は翌年の『スケアリー・モンスターズ』とあわせて斬新なビデオクリップを次々と繰り出して話題を集めた。
『スケアリー・モンスターズ』はRCAからリリースとなる最後のアルバムだった。ここまでのRCA時代こそがボウイの最も革新的で生産的だった黄金時代と評されることが多い。
1980年、ブロードウェイでも上演された舞台『エレファントマン』のジョン・メリック役を文字通り裸一貫でつとめた。次の2年間はドイツの映画『クリスティーネ・F』と吸血鬼映画『ハンガー』に出演するなど俳優業に専念しており、音楽活動は1981年クイーンと共同名義のシングル「アンダー・プレッシャー」のレコーディングとポール・シュレーダーの映画『キャットピープル』のテーマソングを制作した程度だった。
莫大な契約金を受けて移籍したEMIアメリカから1983年『レッツ・ダンス』をリリース。プロデューサーにはシックのナイル・ロジャースを、ギタリストにはスティーヴィー・レイヴォーンを迎える。艶がありファンキーなダンスビートは時代のど真中を射抜いて世界規模のメガヒットとなった。シングル・カットされた「レッツ・ダンス」、「チャイナ・ガール」、「モダン・ラヴ」などのヴィデオ・クリップがMTVで毎日のようにテレビ放送され、ボウイの知名度が日本でも飛躍的に高くなった。そのタイミングで大島渚監督の映画『戦場のメリー・クリスマス』の封切りやワールド・ツアーでの来日公演が実現し、1983年の人気はボウイ史を振り返ってみれば後にも先にも例を見ない絶頂期にあった。
大規模な成功をおさめた者への洗礼が例外なくボウイにもふりかかる。1984年に発表した『トゥナイト』も好調な波に乗ってセールス的には成功していたが、その実は前作の焼き直しでしかなかった。シングル「ブルー・ジーン」がヒットしアルバムはおおいに売れたもののプレスやファンの評判は振るわなかった。そしてここから人気は次第に失速していく。
20世紀最大のチャリティ・コンサート”ライヴエイド”のためにミック・ジャガーと「ダンシング・イン・ザ・ストリート」をデュエット。80年代中盤は音楽活動よりも俳優業に力を入れていた。映画は『眠れぬ夜のために』、『ビギナーズ』、パペットたちと共演した『ラビリンス』などに出演、それぞれヒットはするもののファンは次回作を待ち望んでいた。
1987年巨額の費用と構想を敷いたアルバム『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』とグラス・スパイダー・ツアーなる大規模なワールド・ツアーのプロジェクトを発表。ロックの大御所として再起をかけたが、すでに時代の流れはボウイのいる場所からずいぶん遠のいていた。
1989年、ティン・マシーン結成。バンドのヴォーカリストとして活動する方針でアルバムも発表し話題を呼んだ。また一方で米ライコ社とともにRCA時代のカタログをCDフォーマットでリリースするた音源発掘作業を行う。1990年、サウンド・アンド・ヴィジョン・シリーズと銘打ったカタログ再発とにあわせて世界各地を回る同名のワールド・ツアーを敢行。このツアーは「過去の楽曲の一切を今後演奏しない、このツアーで最後さ」という決別宣言付きのグレイテスト・ヒッツ・コンサートだった。
サウンド・アンド・ヴィジョン・ツアーは成功をおさめた。次期プロジェクトだったティン・マシーンは自らがいちメンバーとしてプレイするという名目で、1989年から1992年の3年間で2枚のアルバムと2度のライヴ・ツアーを行った。ティン・マシーンへの評価は過去最も失敗の声が多かったがグランジ・ロックの影響下にソニック・ユースやピクシーズをリスペクトした音楽性でボウイは徐々に創作意欲を回復させていった。とりわけギタリストのリーヴス・ガブレルスとの出会いは後の活動にも大いに影響を与えるものだった。
1993年ボウイはソロ活動を再開させる。ジャズファンクのサウンドで彩られた『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』を発表。ふたたびナイル・ロジャースを迎えたアルバムだったが評価は振るわず。サヴェージというRCAの子会社の新しいレーベルからリリースされるが直後に破産してしまう。蘇生劇の続きは、同年に『The Buddha of Suburbia』(輸入盤のみ)というTVドラマのサウンドトラックを手がけ、これもセールス的には振るわなかったのだが音楽的には久々に高い評価を得た。
続く1995年にはブライアン・イーノとのコラボレーションを復活させた猟奇殺人とアートをテーマにしたアルバム『アウトサイド』を発表。リリース当時は陰鬱で難解という声が多かったが、ツアーでのナイン・インチ・ネイルズとの共演やMTVでニルヴァーナがボウイの曲をカヴァーしたことなど周囲の動きもあって評価は徐々に高まっていった。『アウトサイド』は続編がアナウンスされていたもののお蔵入りに。ツアー後すぐにスタジオに戻ってレコーディングを開始し1997年早々にドラムンベースを亜流に解釈したアルバム『アースリング』を発表。その後1999年にはリーヴス・ガブレルスとの共同プロデュース作『アワーズ』を発表し2000年には約30年ぶりにグラストンベリー・フェスティバルに出演、過去の音源では60~70年代前半のBBC音源が蔵出しされる。ボウイの好調が広まったのは自身の設立レーベルから発表したトニー・ヴィスコンティと制作した2002年の『ヒーザン』からだとされている。その翌2003年には同じくヴィスコンティがプロデュースした『リアリティ』を発表。ほぼ10年ぶりに大規模なワールド・ツアーを開催する。ツアー終盤で心臓手術を受け、一時は再起が危ぶまれたが、その後もわずかではあるものの他のアーティストのアルバム参加やライヴに客演するなど活動は継続。
だが2007年以降にもなると表立った活動は全くなく次第に引退説が広まっていった。
長い沈黙のなか前触れもなく突如として2013年1月8日、ボウイの誕生日に公式サイトで新曲「ホエア・アー・ウィ・ナウ?」が発表されると1日も待たず27か国でチャート1位を独占、同年3月に発表された10年ぶりの新作アルバム『ザ・ネクスト・デイ』はロック・レジェンドの帰還とともに歓迎され、これも世界各国で1位に輝いた。シングル・カットされた表題曲や「ヴァレンタインズ・デイ」のヴィデオにはボウイ本人も出演しており、シーンの第一線に完全復活を果たした。
2014年にはオール・タイム・ベスト『ナッシング・ハズ・チェンジド』なる3枚組のコンピレーションが発表されそこに収録される新曲「スー(オア・イン・ア・シーズン・オブ・クライム)」も発表された。この曲は現代ラージ・アンサンブルの最高峰マリア・シュナイダーを迎えて制作されたもので、ボウイのこれまでにない意欲的な新世代ジャズへのアプローチはすでに前人未到、だれにも到達し得ない未曾有の境地へと至っていた。
2015年11月にシングル「★(ブラックスター)」を発表、翌年の誕生日にはアルバム『★』が発表されるとアナウンスされ、ファンや音楽関係者はまたしてもボウイの黄金時代が到来かと期待に胸を膨らませた。しかし、アルバム『★』がリリースされた2日後の2016年1月10日、ボウイは18か月の闘病の末、肝癌により死去したことが公表された。
2013年にヴィクトリア・アルバート博物館主催でデヴィッド・ボウイの大回顧展が開催、同博物館の動員記録を塗り替え世界各国の巡回先でも好評を博した。2015年にはボウイも制作に携わった『地球に落ちて来た男』の続編とされる舞台『Lazarus』がニューヨーク、ロンドンなどで上演され、音楽以外の活動やトピックスにも事欠かず、ボウイがロックをリアルタイムで体験した世代から若い世代まで幅広く認知される時代がいよいよ到来した矢先のことだった。
現在、大回顧展は日本にて巡回開催中。没後もデヴィッド・ボウイの音楽や表現は時代のさまざまに影響を与え続けている。

誕生~Space Oddity 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代